2026.01.10 狩猟と写真と量子力学

家にいるのが好きで、なかでもふかふかの布団の中でじっとしているのがとくに好き。山に登れば汗をかくから嫌だ、藪漕ぎすると変な虫が体につくから不快。そんな、冒険心というものをかけらほども持ち合わせない自分は、なのになぜか二人の冒険家の著作を定期的に手にとって読んでしまう。ひとりは服部文祥氏。もうひとりは角幡唯介氏。そのどちらもが、山や極地を歩き、獲物と出会い、生き死にや自らの存在を突き詰めて考えた果てに量子力学について言及していることを最近知りました。狩猟と量子力学、それはとても面白いことだなと思っています。

量子力学というのは、と自分が知ったかぶりで語れるようなものではないのでCharGPTさんに伺いながら書くけれど、それは古典的な物理学からの世界観・物質観の刷新をもたらしたもので、端折って言うと、電子や光子のような物質の根源にはとても微小な波動が存在しているということを発見した理論です。人間の身体からそれを構成する細胞へ、細胞からそれを構成する原子へ素粒子へとマクロからミクロへ観察の精度を上げていった先に、古典的な物理学ではそこになにか原初の粒子があると思っていたのが、それはゆらぎのある波だったというわけです。
波なので、それはある広がりをもっている。ニュートン力学的な世界観ではある時間tにおける位置xは特定されなくてはいけないのに、極小の物質はその広がりのある範囲のどこかに存在しているという不確実な推定しかできず、実験(観測)するごとに、あちらにあるかもしれない、今度はこっちかもしれないという偶然性が、物質の根源のレベルに組み込まれているということです。

アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と表現したように、量子力学以前の物理学ではこの世界というのは精妙な機械のようなもので、それがどのように動くかは予測可能なはずで、そこには偶然や不確実性は原理的にはなかったわけです。偶然や不確実性があるように見えたとしても、それは人間の持っている計算能力がじゅうぶんではなかっただけで、それらもいつかは計算可能になるだろうと。これをしたらこうなる、こういう働きかけをするとこういう結果になる、という因果律がこの世界の物事を支配しているとずっと考えられてきたけれど、そうではなかった。物質は、決定されない状態として、可能性の束、確率的な状態として存在している。つまり神様(=物質の法則)は、存在の根本のところではサイコロを振るらしい、ということです。おぼろげながら、量子力学というのはきっとそんな感じ。

でもそれは電子とか光子のスケールだから起きてくることで、ふつうに私たちが生きているスケールの環境ではそのような性質はないものとして古典的な物理学を頼みにしていても支障はなく、量子力学という言葉が出てくる場面はありません。でも私たちの体や見えている世界を構成している物質は同じようにその量子の性質を持っているわけで、人間の視覚だって光子が網膜のタンパク質に吸収されたり、その刺激が神経細胞のタンパク質によって伝達されたりというように、量子論的な偶然とか不確実さはつねに身のうちに存在しているはずです。そして人はときどき、それに触れる。

山頂や到達点といった目標を設定して、GPSなどを駆使して計画的に遂行するような山行や冒険では、その量子力学の話は出てこなかったんじゃないかなと思う。服部氏や角幡氏は、たとえば地図を持たず、獲物と出会うという稀有な瞬間を待ち続けて山をさまよい、存在の根底、あるいは存在するとはなにかを全身をもって考え尽くした先で、因果だけでは説明のつかないその偶然性やゆらぎのある不確実性に、切実さを伴って触れる体験をしているのかもしれない。

狩猟といえば、2010年代に入ってから何人かの写真家がなぜか連鎖的に、狩猟をモチーフにした作品の発表をしていたことを思い出します。
捕らえられ、解体された獲物の鮮血が真っ白な雪の上に飛び散る、といったような写真がこの時期にぽんぽんっとあらわれて、それは例えば90年代後半に若い写真家が撮っていた、床やベッドのシーツにこぼれ落ちた自傷行為を匂わす血のイメージの2010年代版とも思えるような、わかりやすい訴求力を持っていました。
そんな狩猟の写真が同時期に現れたのは、きっと狩猟というものが、現代の生活が遠ざけがちな肉体の手応えや、生きること死ぬことのリアリティを想起させる対象だったから、というような説明もできるのかもしれない。服部氏や角幡氏の著作がひろく知られるようになったのも2010年代になってからじゃないのかな。世の中的にもたぶんそういう時期だったんだろうと思います。
一方で、写真を撮ることをシューティングというくらいで、撮影は狩猟に似たところがあると思う。森山大道さんには『狩人』という写真集もあるくらいだし。
写真は撮影をする主体がいてもいなくても成立するものだと自分は思っているので、撮影行為を狩りになぞらえ過ぎるのは注意しようと思ってはいるけれど、それでも写真を撮影するという行為と狩猟という行為には無視できない共通性がある。

身を置いた空間、それは写真家によっては都市かもしれないし森林かもしれないけれど、そこでひとりの写真家が身体を移動させながら、その一瞬ごとの時間のなかで、そこにある光に対して微分的にシャッターを切っていくとき、それは狩猟でのそれと同じくらいの環境との応答や存在するものへの問いかけ、そしてなにより高い観察力が発揮されているんじゃないかなと思います。

1990年代に刊行されていた写真雑誌『Deja-vu』には、小林康夫氏による「写真的経験とは何か」というエッセイが連載されていて、そのなかで小林氏が「量子力学と写真は正確に同じエピステーメに属している」と書いていたのを覚えている。エピステーメ…難しい言葉ですけど、知のフレームとか世界の捉え方という意味らしいです。量子力学が拓いた世界の認識のあり方と、写真というものを通して得ることのできる世界の認識のあり方に通じるところがあるのでは、ということでしょう。
「写真にとって、世界は状態関数である」とも書かれている。さらに難しいですね。状態関数は波動関数とも言うらしいですが、再び大幅に端折っていうと、サイコロを振るとして、壺の中なのか空中なのかでサイコロがシャッフルされつつある過程は問題にせず、出た目だけを扱う関数のことです。まるで転がっている最中のサイコロのような可能性の束として、つまり不確実な波の状態としてある世界からひとつだけの出た目を、写真はただ光学的に定着する=観測する。

写真を撮っていると不思議で、この世界は、当たり前のことだけれど写真に撮られるということの以前に存在していて進行しているのだけれど、写真に撮られたときのその1回しか現れなかった世界が写真に写っているように感じることがあります。
物質の根源が波動であるなら、いま見えている世界にもほんの微量だけ波動のようなゆらぎがあって、写真は、カメラという観測装置でそのゆらいでいる世界のうちのひとつの偶然の出た目を、一度きりの像として物質化しているのではなかろうか。写真は世界をありのままに写すと言うけれど、ありのままというのは無数の可能性が重ね合わされている状態で、シャッターがカシャンと切られるときにその可能性のうちのひとつだけが選び出されている。
撮るときにいつもそんなことを感じているわけではないんですが、ごく稀に、世界のある現れ方と別の現れ方との分岐点にスッと自分が立っているとしか思えない瞬間があります。そこでシャッターを切ることでその分岐のどれかの先へと進み、見るわたし、シャッターを切るわたしがいたことではじめて生じたとしか思えない世界が現れる。狩猟においては、それは発砲の瞬間かもしれない。

観察する人がいることで、ある光景が現れる。写真に撮られたことでその光景は存在したことになる。こういう捉え方は一歩間違うとスピ系や引き寄せ系へまっさかさまに堕ちてデザイアなのでくれぐれも要注意だけれど、でも意外と、あるひとりの人間が知識としてではなくその身で世界を経験するということは、そういう一瞬一瞬の観測の積み重ねなのではないかと信じたくなる自分がいます。
かぎりなく短い時間、連続するその刹那に観察力の強度を上げて向かい合ったときにしかあらわれてこない世界の分かれ目、あるいは量子力学的な「辻」、あるのかもしれません。


2024.12.08 冊子『写真についていく』の刊行

2020年のコロナ禍に、この「note」で書いてきたものをまとめた『写真のとなりで』という冊子を作りました。そのあとも時折ここに書き続けて、それがまた溜まってきたので、再び紙で読めるように冊子化して古いものは一旦すっきりすることにしました。

判型と頁数、価格は前作と同じです。
装幀もふたたび美術家の野村浩さんにたいへん助けていただきました。今回の表紙のかわいさはすべて野村さんのおかげです。
この冊子を扱ってくれる書店をこれから探していきたいと思います。もしご興味のある書店さんなどいらっしゃれば、ぜひCONTACTのメールアドレスからご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。


2024.11.20 わかりはじめたマイレボリューション

こうして駄文を書いていると、いつも文章をするすると書きつけている奴だと思われるかもしれない。けしてそんなことはなく、自分の場合、前向きな気分で文章を書き始めることは少なくて、どちらかといえば撮影で失敗したり、他人の展示を見に行ってモヤモヤを抱えたときだったり、トークイベントで思ったように話せなかったりして、ぐぬぬ‥と後悔や反省、腑に落ちなさが頭を駆け巡っているときに、心の地底から粘性の高いマグマのように言葉が押し出されてきます。
ぐぬぬ案件で忘れられない最近のものは、9ヶ月前に田附勝さんと行った対談。対談自体はとても面白かったけれど、終わった後に、言葉が足りなかった、自分の考えが足りなかったと今でも押し出されてくる言葉があります。
いちばんの反省点は90年代の写真についての理解と、それをどう言葉にするのかということ。90年代は自分がいちばん吸収力の高いときに通過してきた時代なので、よく知っているつもりでいたけれど、それをちゃんと振り返って考えて言葉にしたことがなかったとあらためて気付かされました。

ここ数年で平成期の写真についての文章も書かれはじめています。ただ、例えば60年代や70年代の写真が語られているその言葉の厚みにはまだまだ足りません。60年代から70年代の前半あたりまでは、社会の熱気もあって、とにかくあらゆる表現者が饒舌だった時代です。VIVOやPROVOKEの周辺に写真家以外の批評家や詩人が参加しているのも時代だなぁと思います。言葉は言葉を生むもので、それがいまだにこの時代が写真を語る人にとっての尽きない泉になっている所以でしょう。もしかすると90年代の日本の写真についての総括は、国内の研究者ではなく、海外の研究者によってなされたりして。そうなったら少し残念ですね。

90年代の写真といっても今の地点で思い返すよりもずっと多様で雑多で、自分がここでなにか書けるとしたらそれは90年代の風景写真のことで、それはたとえば高橋恭司さん、川内倫子さん、佐内正史さんとかの写真だろうと思います。
どこにでもある日常、ありふれた場所。どことは特定できない匿名的な土地。私的な空間やとるにたらない事物。そういったものをカラーネガフィルムでたんたんと撮影する。それは90年代以前にはなかった写真でした。
撮影者としての自分と、一方に被写体である世界があって、それは自分の手が届く生活圏から社会的な領域へ、自分の近いところから遠いところへと拡がっていくうちの、自分に一番近いところを被写体とする傾向があったと思います。自分の拠って立つ場所をまずしっかり観察するという志向です。

これは以前も書いたことで、あくまで自分の見方でしかないですけど、そういう対象に向かってシャッターを押す切実さを感じたのは、90年代の写真家が物心ついてから目にしてきた多くの写真、日本が世界でいちばんのお金持ちだった80年代後半のバブル期に増産された、どこか海外の風景のなかで欧米系のモデルを使って日本人が撮る的な写真に対する、こんなものは自分たちの生きている世界ではないという醒めた感覚も影響していたと思っています。

荒木さんの『センチメンタルな旅』の冒頭の手書きの文章のなかに「嘘っぱち」という言葉があります。もちろんこの文章自体は最初の私家版が刊行された1971年当時の気分で書かれているわけですが、これが1991年に新たに増補版の『センチメンタルな旅・冬の旅』として出版されて、自分も手に取りましたが、90年代半ばの若者にとって刺さる言葉だったんじゃないかな、嘘っぱち。
いわゆる失われた30年の最初の10年にあたるこの時期。そんな重めの社会の空気を吸って生きていたのは間違いないけれど、むしろそんな嘘っぱちの世界がバブルとともに吹き飛んだ後の、ある意味ですがすがしいともいえる現実の肯定と、政治とか社会批判とか、大きく振りかぶった言葉への抵抗のほうが肌感覚としては強かった気がする。
だから60年代の観念的な熱弁も違うと感じていて、すでにあるような言説には乗っからず、もっと平熱で平易な、自分たちの等身に見合った世界の捉え方というのを探り、自身が立っているどうしようもなく無秩序で周縁的な風景をそのまま真摯に捉えることに意義を見出したのではないかと思います。大ぶりな言葉による切り分けの回避、または言葉そのものへの諦めを前提として、それでもなにかできるんじゃないかという期待。

95年のオウム事件のとき、あの最悪な事件を起こした集団の拠点がおかれていたのは上九一色村という、日本で市街地を離れればどこにでもみられるような、匿名的でありふれた風景だったというのはなにかとても示唆的でした。そしてそこにとてもリアルなものを感じ取っていました。なんでもない風景はすこしもなんでもなくない、ということこそが現実で、そういう風景は例えば三里塚や沖縄のように、撮った途端に言葉に回収されてしまう風景とも違っていました。
そういうことが、自分の身の回りの日常を撮る写真の裏付けになったんじゃないかなと思います。そこに嘘ではないものを感じる感性はあったし、そういう写真に触れた自分にも、内側でなにかがバリンと音を立てて刷新される感覚がありました。

言葉そのものへの諦め。そう、たしかにそんな感覚はあったように思う。60~70年代の社会批判的な饒舌さは経済が過去最高に高揚するうちにいつしか失速し、80年代のニューアカデミズムはバブル崩壊とともに勢いを失い、いったい言葉になにができるの?という。
90年代の写真について語る言葉の少なさ、言葉の層の厚みの薄さは、写真家の側のそういう感覚も影響しているのではないかと最近考えます。そんな言葉への疑いが、そのまま写真の言語化の難しさになっているのかもしれない。撮影する側がそれを慎重に回避するように被写体を選んでいるのですから。
それでも人はそれらの写真について理解をしたいと思う。そうするとなにが起きるかというと、作品を理解しようとするときの焦点が作り手のほうに寄っていってしまう。作り手をブラックボックス化するというか、伝説化するような。あるいは写真家をグルかシャーマンのように手放しで偶像化するような。けれど写真を撮ることをまるで魔法のような行いに見せるのは違う。

件の対談のなかで、田附さんが90年代の写真は「自我が強い」と言っていたのが印象に残っています。自我の主張の強さでいったらそれは年月を経るごとに強くなっていると思うので、現在に比べれば当時はまだそんなに強くない気がするけれども、意図するところはわかります。
撮られているものが撮影者に近いものばかりで、写されているものをそれだけで語ることが難しい。写真家が寡黙なので、その言葉から読み解くのも難しい。そうなると関心は写真家自身の生きる世界、その捉え方、人となりというところへ収斂していってしまう。写真家を語ることしか術がなくなってしまう。90年代の写真を語るときの語りの停滞はそういうところにもあると思う。
写真を言葉にすることで写真が「わかる」ようになるとは限らない。けれど言葉は、撮られた写真、一枚一枚の写真を、写真家の手からひとまず引きはなすことはできると思います。「わからなさ」は写真に写されたその像に生じることで、写真家がそれを手品のように生んでいるわけではないのです。

それで、そんな90年代からしっかり30年分の時間が流れました。 1994年であれば、その1994年という時代の気分のなかで写真を見ていて、それはこの2024年の時代の空気のなかで写真の前に立った時に見えるものとは、同じところもあるけれど異なるところのほうが多い。
写真は、撮影された時点での時代の空気から引きはがされた時にはじめて見えてくるものがあるんだなということを、自分たちの世代の写真家は自身の写真にも発見しつつある。風景なら風景、人なら人をちゃんと撮っておけば、その像はそれぞれの時代のなかでの見え方を示してくれる。

言葉にすることは自分の底の浅さを知らしめてしまうようで恥ずかしいし、言葉が万能だとも思っていないし、ときに言葉は嘘を飾ることもある。けれど言葉の層の厚みは批評の土壌なので、90年代の写真への理解を深めるためには、自分たちの世代は90年代の写真について、そのなにが自分たちをあんなにも魅了したのかについて、もっと言葉にするべきだと思う。言葉にできることは、ときにはぐぬぬと押し出して言葉にしてみる。そうすることで、90年代の写真を知るための焦点を、写真家寄りの地点から写真が結ぶ像のほうへと近づけることができるんじゃないか。ひきつづき今後の課題のひとつです。


2024.09.30 映え堕ち

尊敬する人物は坂本龍馬と言う男とジャムのことをコンフィチュールと言いたがる女には気をつけるんだよ。祖母が亡くなる前に言い遺してくれた言葉です。理想の自己像がちょっとお高いところにあって、地に足がついていない感じというか。わりと頻繁に’新しい自分’を見つけたがる方々というか。おおよそ、こういう人たちがSNSに上げる写真はツヤッツヤ、きらっきらしてるものです。ものすごい偏見ですけれども。

「映え」という言葉はもう廃りはじめているような気もしますが、言葉の廃りとは別に、「映え」的なものを求める心情は現在の私たちのなかに当然のものとして居着いたように思えます。なんなんでしょうね、それは。

アテンション・エコノミーという言葉があって、それは情報が過剰に供給される今のような世の中で、けれどわたしたちがそれらの情報に向けることのできる関心や、それらを咀嚼したり消費するための時間は有限なために、関心そのものが希少価値を持って経済のなかで流通する、そういうことを指しています。あからさまに言えば、関心や注目を集めることがお金に直結する経済です。見るべきもの、知るべきことが飽和状態にあるなかで、どうやって人の関心や注目を集められるかがこの社会のなかで重要になっている、そういう世界に私たちはもう長いこと生きています。
関心を集めるのは、かつては企業がマスメディアの広告などを通して行い、いまはネット上のプラットフォーム企業を介して行われるのですが、それを個人も行うようになったのがこの10年くらいの間の変化なのでしょう。「映え」はそのための手段のひとつですが、「映え」的なものを通じて、私たちは人の注目を集めることに価値があると、ふつうに考えるようになったんだと感じています。日々「映え」に堕ちつつある。
最近は色彩の鮮やかさやきらきらした「映え」の反動で、地味な写真が流行ったりフィルムカメラや低画素コンデジのローファイな画質が流行ったりしていますが、見た目のテイストが変わっただけで、関心を集めるための「映え」であることに変わりはありません。

ただ写真映えするものを撮りたい、記録に残したいということではなくて、そのような写真や動画によって注目を集めたい、承認をされたいという心情というのは、別にSNS以降だけのことではなくて、たぶん普通に、自分も含め写真家になりたいとか映像作家になりたいとか思う人が抱く心情だと思います。だから「映え」を自分のような立場の人間がバカにできるわけはない。写真家含めて芸術家は、そのように関心や注目を集めることで生業を成り立たせていくロールモデルであるといえなくもない。
画家や写真家が個展をするとき、どの作品を告知用のメインビジュアルにするかと選ぶときは、なによりその一連の制作の過程で鍵や転機となったものはどれかと考えたりするわけですが、同時に作品の、たんに見た目の訴求力ということも考えます。どの作品を案内ハガキに印刷したら人がたくさん来てくれるかな。この案内ハガキを手に取った人の興味・関心を獲得できるかな。それは「映え」の感覚と同じです。

一方で、すこし前に、店舗の背景に富士山が見えるコンビニにツーリストが大挙するという話題がありました。後景に富士山が見えるコンビニなんて他にもあるだろうし、コンビニの代わりに別のファーストフード店などでも可能な組み合わせだと思うんです。なのになぜそこだけに?
写真家だったらそのような組み合わせで撮れる他の場所を探してまわるはずです。でもツーリストにとっては、あのローソンでないと意味がない。そのローソンこそが有名な場所なのだから。
「映え」というのは、他人が知らないものでは意味がありません。人と違いすぎるものや、人が思い描いたことのないものも効果が得られない。多くの人に、それは良いもの、見るべきこと、行くべき場所だという認識があらかじめ共有されていてはじめて、そこにいる私、そこに行けた私を知らしめることができる。
だから、なにがそのような共通認識のもとにあるかを理解することが「映え」の肝です。それはいまの社会を覆う意味の網を読み取る能力みたいなものです。早いサイクルで移り変わっていく意味の網、あるいは人々の嗜好の網から逆算して、なにがより注目を集められるのかを嗅ぎとる嗅覚が大事です。

どうしたらより「映え」るのかと考えて写真や動画の撮り方を工夫したりすることは、撮影が上達する入り口になり、そこから写真や動画へ興味が向くきっかけになるかもしれないので、「映え」は創造性の発露のひとつのようにみえるかもしれませんが、じつはそれは意味の網の外側、まだ誰も踏み入ったことのない場所へ草をかき分け、藪を漕いで進んでいくこととは無縁な行為だったりします。誠実な画家や写真家がやっていることと隣接していることのようにみえて、そこがとても大きな違いじゃないのかなと思っています。
「映え」というのは、つまるところ、他人の関心の量で自分の行為を計るということで、他人に評価を預けてしまうということ。それは他人の関心に追いかけられるということ。それが行き過ぎると、目立てばいい、話題になれば勝ちという、表現としてはなにも生まれない凍土みたいな場所にしか辿り着きません。

ひとりの作り手が継続的に執着して取り組み続けられるテーマはひとつかふたつくらいしかない。たしか保坂和志さんがそう書いていたし、同じようなことを坂本龍一も村上春樹も言っていました。自分も20年ほど続けてきて、まったくそうなんだよなと思います。それは作り手のオブセッションのようなものかもしれないし、作り手のなかにどこかで着床した種や根のようなものかもしれない。
その表現の種や根がどのように育っていくのか。あるいは育てていけるのか。作られたものと作った人が呼応しながら、次に進む方向が自ずと見えてくる。なにかを作り続けるというのは、その方向を作品とともに探っていくことだろうと思います。
誰かの関心や注目を集め、褒めてもらったりするのは励みになるけれど、そういう関心や注目を集めるために試みられることは、刺激的ではあるけれど新しくはなく、目を奪われるけれど記憶には残らず、そんなことをしているうちに種や根を枯らせてしまうことになるような気がします。

このアテンション・エコノミーが席巻する世界で表現者が制作を続けながら生きていくには、それを部分的、一時的に受け入れて利用していくしかないんですけど、うまく利用するつもりが、関心を集めることが目的のようになってしまう人がいます。自分は大丈夫だろうか。
作品と向き合わずに、人の評価や関心にばかり向き合うようになってしまうと、映え堕ちは深まるばかりです。


2024.06.06 風のない夜

いろいろな夜がある。自分は風のない夜が好きです。
夕食がはじまる前、18時50分くらいから放送されるNHKの天気予報を、予報士さんの話をよく聞きながらじっくり確認。高気圧にひろくゆったりと覆われるような天気図で、気圧線が混みあっていないときの真夜中は、風が吹かない。夜の撮影はそういう日にします。今は詳細な天気の情報をいつでも見れるけど、『真昼』という写真集を作っていた20年以上前は、テレビの天気ニュースが最新で確実でした。

いままで誰にも指摘してもらえたことはないのだけど、自分が撮った夜景の写真では、そこに映る木や草が動いていません。使っていたのは感度100か160のフィルムなので、露光には4分、8分、長いもので16分もかかっているものがあるのに、ほとんどブレたりしていない。それは風のない夜を選んで撮っていたからです。真夜中というのは1日のなかでいちばん風が吹きにくい時間帯ではあるけれど、露光中まったく風が吹かないような夜はそこそこ珍しくて、天気予報のお世話になりながら、それはとても気を遣っていたことです。

ほんとうに、空気がそよとも動かない夜があって、そんな夜の、しかも郊外とかであれば聞こえてくる音も無く、そんな時ふと、時間はほんとうに流れているんだろうかという錯覚にとらわれることがありました。すべてのものがぴたりと止まっている真夜中にひとりで街灯の下に立っていると、なにか、自分の体がすっぽり違う次元にはまったような、まるで自分が静止画のなかに入ってしまったみたいな感覚だったことを覚えています。覚えていますというか、今も夜の撮影のときにはそう感じることがあります。

現在も公開されているのか知らないけれど、東京・初台のNTTインターコミュニケーションセンターに無響室というものがありました。四方の壁が音を吸収する構造になっているので、無音という特殊な環境を体験できるんですが、その部屋の中にいると、風の吹かない真夜中に立っているのと似た感覚に陥ります。
音が鳴るのも風が吹くのも空気が動くことで、それは世界が絶え間なく動いているということを示す最低限の情報で、それが感じられないから世界が止まっているような錯覚が生じるんだろうけど、もちろん、わかっています、それはただの錯覚。世界が、時間が、止まるわけはない。
わかっているけれど、そんな錯覚は一方で、「なにも動くものがない」「なにも聞こえるものがない」と知覚し続けながら、呼吸をし、拍動を続けている自分自身の側、つまり「いま」の「ここ」にいる「わたし」には、すくなくとも時間が流れているということを意識させてくれます。

なにかが静止している、と感じることができるのは、静止という状態がある一定の時間の幅のあいだは継続していることを、感じとる人が、そう感受し続けているからです。感受し「続けて」いるということは、その人のなかでは時間が流れている。 時間というのは不思議なもので、動き続けているものの只中にいるときは意識の上面にはあがってこないけれど、停止しているものに直面するときに、その運行の有り様を示してくるもののようです。
無風・無音のなかでなにかをじっと眺めることは、その動かない対象を眺めることであるとともに、自身の内を流れゆく時間にも目を凝らすことじゃないかなんて考えながら、神妙にシャッターを開けて露光を試みる夜があります。

動画を撮り、それを人に見せられるだけのものにしようとすると、その背景につける音の重要性に気づきます。なにも動くものが映らない、写真のようなカットが続く動画であっても、そこに音があれば、数分以上眺めることは苦になりません。雑踏のノイズ、鳥の声、車が走り去る音、そういうものが耳から入るだけで、その映像が撮られた場が立ち上がってきて、想像をふくらませることができる。音があることで、動画は動画らしくなるというか、鑑賞者がそこで流れる時間のなかに入っていける。

考えてみれば、映像には静止画と動画があるけど、音には静止音というものはありません。なぜだろう。動画は静止画が明滅して連なるものでしかなくて、動いているように見せているだけですが、音は空気の振動であり、流れている時間そのもので、だからほんとうは音が映像に時間を付加しているんじゃないかという気すらします。
音が付く前の映画、リュミエールからトーキー前夜までの映画は、画面のなかでなにかが常に動いています。止まったら死んでしまうというくらいにせわしなく。たぶん、音の無い映像では、止まってはいけないんですよね。動きを止めたらそれは写真であり、時間の強制終了になってしまう。
一瞬だけ動画のショットがある以外、ほぼ全編が400枚弱の写真によって構成されているクリス・マルケルの「ラ・ジュテ」は、冒頭から悲壮感のある楽曲とナレーションに牽引されて28分間の物語を語りきるわけですが、DVDでもyoutubeででもいいんだけど、ひとつのシーン=1枚の写真を停止させながら見ていくと、それぞれの写真は当の物語にはなんの奉仕もしない一葉のスナップショットとして見えてくる。ある過去の時点で撮られた、ある男性、女性、どこかの空港の写真として、自分はそれを眺め続けることができる。

それは物語の進行という意味では停止なのだけど、停止・静止したものとしての写真を眺めることでしか感じられない時間の流れというものがあって、やっぱり自分は、物語を走行させるための時間よりも、写真の時間に興味を感じているようです。風のない夜や音の無い部屋で感じるのと同じ、その時間のあらわれ方に。
写真は過去の一瞬を停止してその像は動き出すことがありません。動くことがないからこそ、それを眺めている自分が身を委ねている時間の動きに気づくことができる。時間の停止である写真を眺めることが、逆に時間というものの有り様をなぜか強く訴えかけてくる。そのことは30年近く携わっていても今だに写真って面白いなと自分が感じる理由のひとつです。それは、誰かの死に直面したときに「自分は生きている」と気付かされることに、すこし似ています。


2024.02.04 福島で撮影を続けることについて

いまも継続して撮影している「Semicircle Law」という作品は、撮り始めてからもうすぐ13年が経ちます。これまでに何度か展示をしているので、これを読んでいる人は、それがどういうものか知っているかもしれません。

2011年3月11日の東日本大震災の直後、津波を被って電源喪失状態となった福島第一原発では、3月12日から15日にかけて、6棟あるうちの3棟の原子炉建屋内で続けて水素爆発が起き、放射性物質を飛散させるとともに、炉心がメルトダウンするという大きな事故が発生しました。
それから1ヶ月すこし後の4月22日に、福島第一原発の周辺は避難指示区域とされて、原発から半径20km以内の全ての住民が避難しなければならなくなりました。このシリーズの撮影はその前日の4月21日から始まっています。

震災と原発事故のあと、被災地に行く?行かない?といったようなことを、写真家や写真の関係者が顔を合わせると話題にしていたなと思い出しますが、当初、自分は被災地に行くつもりはありませんでした。
災害を伝える写真、つまり報道などのドキュメント性の高い写真は、被害を受けたその現場へより早く/より近くへ行くことが求められます。写真が力をもつためには、ことが起きた後の生々しさができるだけ残っている方がいい。でもそれは、自分ができることではないと思っていました。
撮影者は被災したその場に立って、なにを撮り、なにを撮らないかという選択をするわけですが、そうするとどうしても、より訴求力の強いイメージを撮ろうとするものです。甚大な被害に見合うだけの、より悲惨に見えるもの、より深刻に見えるものを。福島の場合で言えば、人物を撮るのなら、私服の人よりも防護服を身に着けた人であるし、ただの山林や田畠よりも、放射性廃棄物を詰めたフレコンバックが高く積まれた風景を選ぶ、というようにです。そういう写真を撮る意義はもちろんあります。それは「伝わりやすさ」であり「わかりやすさ」と言ってもいいと思いますが、そうやって撮影者の主観で被災地を切り取っていくようなこともまた、自分にはできそうにない。
じゃあ、なにもしなければいいのか。写真を撮る者として、なにかしらの方法で関わりをもっておかなければ、直接の被害を被らなかった自分は、この事故のことを他の多くの災害と同じようにきっと忘れてしまう。そしてテレビのニュースで取り上げられた時だけ思い出すようになってしまう。それは嫌だ。そう感じて、なにか適切な取り組み方はないだろうかとあれこれ悩んでいたのを憶えています。

当事者か非当事者かでいえば、自分は福島の原発事故に関しては非当事者です。当時の事故の推移を思い返せば、より悪い条件が重なっていれば、関東に住む自分も当事者になりえたわけですが、幸い、そうはならなかった。
あの当時、分別のある写真家は、自分が当事者であるか非当事者かという、明瞭な線引きのできないグラデーションのなかで、自分の立ち位置を見定めていたのだろうと思います。自分は内側にいるのか、外側にいるのか。いやそもそも、なにからみた内側/外側なのか、という。

自分は当事者である、被害を受けた者としてこの原発事故を写真に撮っている。そのように声を発すれば、写真には「わかりやすさ」が備わる。けれど当事者ではない自分は、自らの前に線を引き、外側から撮るしかありません。事故のことをわかったふうに語ることも、直接の被害を被った人たちの立場に立ってなにかを代弁するようなこともせず、当事者と認められる一線の外、ある一定の距離からしか見ることが出来ないという条件があっても、なにか説得力をもつものが作れるのではないか。より早く/より近くではなく、より長く/より遠くその影響が及び、しだいに忘れられていく福島のケースだからこそ。

主観的な切り取りをしないために設けた撮影のルールは、原発から半径約30kmの半円内にある山の頂上に登って、地図とコンパスで原発の方向を見定めて、原発が必ず画面の中心になるようにカメラを向けてシャッターを押すということでした。山頂と原発を結ぶ一本の直線上にレンズの光軸を重ねてシャッターを押す。この13年間やってきたことはその繰り返しです。時期を変えて同じ山に何度も登ることも増えてきました。

「わかりやすさ」を追うことはできそうにないと書いたけれど、それでもこの福島のシリーズは、これまで自分が撮ってきた写真とは違うのではないかと言われます。
なにより、福島の原発事故を撮っている、という拠りどころがあります。写真を鑑賞する側からしても、これは原発事故を扱っていると知った上で写真と向き合うことになる。そこには鑑賞をする上での「とりつくシマ」がじゅうぶんにある。そして写真家がこの災害を撮ることは、もっともなことだと見做されます。
原発事故を扱うということは、写真を「もっともらしさ」=共通の理解のなかで撮り、見せるということです。わかりやすくはないけれど、もっともな行為だと思われることは避けられません。
「Semicircle Law」以前の写真は、その「とりつくシマ」が少なければ少ないほど、望ましいと考えているところがあります。情報が少なく、意味としてあらかじめ用意されているものも少ない。なぜ写真家がこの場所を撮るのかわからない。そういう写真です。
自分はそのどちらもが写真だと思っているんですが、「もっともらしさ」を帯びた写真と「もっともらしさ」からは遠い写真を並行して続けていることは、もしかしたら作家としてのブレなのかもしれない。それは今の自分にはわかりません。続けているうちに、どこかでその二つが合流する地点があるのではないかとは思っています。

このシリーズは2013年の1月に写真集として刊行して、そこで撮影は一旦終了だと考えていました。その気持ちが変わり、もうすこし撮り続けようと思ったのは2013年の夏頃だったか、東京オリンピックの招致活動のなかで誰かが「復興五輪」という言葉を使い始めたときです。社会が、災害にかこつけて別のことを推し進めようとするときは、当の出来事を過去へ追いやろうとしていることの兆しですから。
事故の後のまだ間もない頃は、避難を強いられた場所はずっと人が立ち入れないままで、住民が戻れることもないと思っていたのが、実際には避難指示区域内の線量の低い場所は着々と避難解除をされ、あらたに帰還困難区域が設定されたりと、行政的な区分けが変遷しはじめたのも2013年頃でした。

ここ数年は、海に近い市街地にはお店も増え、箱物施設も増えてと様変わりしつつあります。帰還困難区域のうち、かつて集落があった地域などは特定復興再生拠点とされて除染も完了し、避難解除がされました。残りの帰還困難区域はほぼ山間部です。それは今後どうなっていくんだろう。30年も経てば半減期をむかえる元素もあるので、除染をしなくても時間と共に放射線量は低減していくのでしょう。

街や集落の変化とはべつに、山頂で繰り返し定点的に写真を撮っていて気づくことがあります。それは木が成長しているということ。以前は梢の上から遠くの原発建屋が望めたはずの場所でも、木が伸びたせいで隠れてしまっている場所があります。当然のことではあるけれど、山に生えている木々も時間とともに育っている。そこでは原発事故からの復旧という、人間の営みの時間とは異なる間尺の時間が流れています。

もしこの事故が起きた時に自分が20代だったら、長めの時間を見通すだけの余裕がなくて、このシリーズをたんたんと続けてみようとは思えなかったかもしれない。もし50代だったら、体力的に山に登って粘り強く撮影を続けることは難しかったと思う。事故当時の自分が、写真を始めてから20年ほどが過ぎた30代後半だったことは、この撮影に取り掛かろうと決める上での小さくない要素だったと思います。その時の自分が出くわした現実の一端を受けとめて、この地域が今後どうなっていくのか、その進んでいく先をできるかぎり見届けたい。廃炉がいつ終わるのか、もはや誰にも予測ができないけれど。

撮影を続けているかぎりはこの事故のことを忘れることはないし、原発行政や災害についても知り続けることができると思っていましたが、実際にはこの13年のうちに、当時の記憶が鮮やかさを失い、記憶の棚の奥深く、遠くへとすこしづつ離れていくのを感じています。
もし東日本大震災よりも深刻な災害が起きたら、相対的に、私たちは福島第一原発の事故のことをさらに早く忘れていくと思う。そしてそれは日本のどこかで(あるいは首都圏で)、大いに起きうることだということが、今年1月の能登での大きな地震を目にした私たちには容易に想像できます。

それでも、これまでに撮ってきた写真を見返すと、その深く遠くへ離れつつあることがらをあらためて思い起こすことができます。写真は記憶の留め金のようです。この先、何十年か経った後でも、その時々の留め金が、記憶の奥の深く遠いところから微かな光を照り返してくれます。それを見るとき、忘れていたことが忘れられたまま、自分のうちにありつづけていたと気づくはずです。